『拾った切符 1』

 バブルに浮かれた後の不景気は日本経済を半病人にして慢性化の様相を呈してきている。昨日も仲間と赤提灯でオダを上げたが、飲み屋のサラリーマンの話題も湿っている。
 睡眠不足と酒に疲れた胃袋からのカーバイトのような匂いをごまかすように、ミントの効いたガムを噛みながら乗換駅を人波に身を任せるように歩いていると、急に来た。胃腸が弱いのに酒に飲まれるように飲んだ報いだ、額から冷や汗が出そうな便意でとても我慢が出来ず、いつもは目の端でやり過ごす駅のトイレに飛び込んだ。
 だが、ここも俺のようなサラリーマンが順番待ちをしている。今から別のトイレへ移動してもやはり順番待ちだろうし、前に二人ならトイレの数が3個だから待っても3分か5分だろう。何気なさそうに新聞を広げてみるがとても記事は読めない、無意識のうちにハンカチで汗も出てもいない額をぬぐう。一目で便意に耐えているのが判ってしまうが、周りの奴らも同じようなものだ。便意を忘れようと旅行の広告を見るが温泉よりも今は糞がしたい。

 30分にも1時間にも感じる時間に耐え、やっとトイレに入れた。ズボンとパンツをいっしょに下ろすと同時に、女の放尿のように水便が出てやっと周りを見回すことが出来た。紙はあるか。あった。ティッシュでは排水管に詰まる事があるらしく、汚い便所とはいえロールペーパーが備えられ、脇の小さな棚には予備のロールが2個重ねられていた。ホルダーのロールペーパーが残り少ないので予備の1個と入れ替えようと手を伸ばして、棚の端のJRの小袋に気がついた。
 何気なく中を覗くと切符が入っている。切符は熱海までの新幹線の指定席になっている。前に入った奴か、それともその前の奴か。突然トイレのドアがたたかれたので急いで尻を拭き、外に出た。ドアの外にはさっきまでの俺のような奴が睨み付けるような泣きそうな顔で便意をこらえて立っていた。
 便意からの開放感で気分も良くなり、ポケットに押し込んだJRの切符をしげしげと見た。誰があそこに忘れたのだろうか、JRに届けようか、近くで面白みもないがネコババして遊びに行くか。不景気で努力の割には成果の出ない仕事で疲れた頭は一瞬空想の世界をさまよった。
 もう一度切符を見た。今日の指定でしかもあと30分足らずで出発の新幹線だ。空想と誘惑に負けて、すぐ携帯から会社にポカ休の連絡をした。たいした懸案もない時期だったので課長は渋い声だが許可してくれた。

 さて、指定席の切符だが、どんな乗り方をしようか。本来の切符の持ち主と新幹線の中で鉢合わせしないだろうか。エーイままよ。別の席に座って、本人が現れるかどうか見てればいいや。と、糞度胸で新幹線に乗りこみ3列後ろの席に座って様子を見る事にした。ウィークデイだが関西方面への出張には少し遅い時間のためか客席はすいていた。発車してまもなく検札が来て、少しドキドキしながら切符を出すと「お客様のお席は3列前になります」と言って去っていった。
 おずおずと指定席に移ると隣の席には小柄な女性の先客がいた。会釈をして座ろうとすると「乗り遅れたのかと思いました。」と話し掛けてきた。何の事か判らないがとっさに「発車寸前に別のドアから飛び乗ったので列車の中をこちらまで歩いてきました。」と相槌を打った。

 席に座ったものの隣の女性は何なんだろう。頭の中は空想と妄想と現実の狭間で回転し、スリップする。何か言った方がいいのか、ビジネスパートナーなら私が他人である事はすぐわかるし、かと言って、赤の他人なら乗り遅れた事を心配するわけもない。声も出せずに体は半分固まってしまった。
 その時女性の方から「熱海までご一緒しますが特に名前や名刺の交換は無しにしましょう。わたし、名刺を持っていませんし。」と窓の外を見ながらつぶやくように言った。「私もそれが良いかと思います。」と答えてまた無言になった。
 何か話した方が良いのか、話さない方が良いのか。切符をJRに届けた方が良かったのか。拾った切符とは誰も判らないだろうと思って乗ったが、隣の先客に声をかけられるなんて、そこまでは考えなかった。あるいは何かの罠か。何かとてつもない事に巻き込まれるのか。それともご褒美か、いや、そんな都合の良い事は考えられない。また、頭は回転とスリップに巻き込まれ、脳味噌が白くなりかけた。

 そんな時、視界に丹沢の大山が飛び込んだ「ああ、大山だ。大山祇神は木花之開耶姫の父親だから、丹沢の大山は富士山より偉いんです。」と口を突いて言葉が出た。隣の女性が「え、なに?。」と言いながらこちらに目を向けたので、失敗したと思いながらも富士山と大山の関わりをもう少し詳しく話し、少しうちとける事が出来た。
 それでも二人は言葉少なく、小田原の鯵寿司弁当が美味いなどと当り障りのない話題を選び、ポツンポツンと途切れ途切れに話をした。
 まもなく熱海との車内アナウンスを機に立ち上がると、隣の女性も立ち上がり、さりげない様子で私の手にそっと手を回した。東京から熱海までのわずかな時間だがその時間の経過と女性の手の温もりを感じたとたん、新幹線に乗り合わせたときの違和感は助平な妄想により一気に心の片隅に押しやられた。
 熱海の改札口を出る時に「タクシーで行ったほうが目立たなくて良いでしょ。」と女性に腕を引っ張られそのままタクシー乗り場に行き、はたから見れば女性をタクシーに押し込めるようにして乗りこみ、あれよと言う間に古風な和風旅館に着いた。タクシー代も千円とかからなかったので駅からさほど離れていないのだろうが、駅前の喧騒とは打って変わった閑静な和風旅館にこれが熱海かと思った。昔、会社の仲間と遊びに来た熱海とは別の熱海がそこにあった。歴史の深い温泉地の懐の深さを感じて周囲を見回していると、旅館の女将が出てきて、うながされるままに、戸惑いつつも部屋まで上がってしまった。

 部屋では新幹線の女性がお茶を入れており、女将も何も言わずにすぐ姿を消してしまった。なにか判らないがすべてが設定された通りに動き、計算され尽くした舞台に一人素人が紛れ込んだような一抹の不安感の中で体が浮遊するような感覚に襲われた。こんな感覚を以前味わった事がある。そうだ、高嶺の花と言われた秘書の渡良瀬佳子をやっと口説き落とし、へそくりまではたいたあの夜のホテルで感じた感覚だ。今もその感覚に襲われ、足が地を離れたような不安定感に酔い、そのままエクスタシーに突入する予感とで我を忘れそうになった。

 「私、温泉を浴びてきます。お茶を入れてありますのでどうぞ。」と始めははっきりと、だんだん声を落としながら話すのを聞いて、素っ頓狂にわずかに上ずりながら「私も温泉に入ります。」と答えると、女性は「ここには家族風呂はありません、男女別々の内風呂です。」と言ってクスリと笑った。

 風呂は広さこそ大旅館の大浴場に慣らされてしまった者には小さく見えるが、湯船も流し場も総檜の落ち着いた風情の一人で入るには充分に大きく、あの女性と一緒に入りたいとの妄想に股間は血がみなぎった。しかし、頭に浮かんだ女の姿は渡良瀬佳子の手足の長い大柄な姿だった。新幹線のあの女性は渡良瀬よりもずっと小柄でその裸身は頭に浮かばなかった。ただ、その裸身を想像する事はできるが体の詳細は、湯船の中にゆらゆらと揺れる自分の姿のように輪郭は定まらなかった。
 切符をネコババしてからまだわずかしか経っていないのに、女と熱海の温泉に浸かっている不自然な現実に股間の血が急速に引き、湯当たりしたかのように力を失っていった。
 湯の心地よさの中で漠然とした不安感を感じながら思わぬ長湯になり、洗いもせずにふやけた体を拭き、ネクタイまでは締めなかったがスーツ姿で部屋に戻ると昼には少し早いが食事の支度ができていて、食卓には女性が浴衣に着替えて座っていた。

 「お風呂に入ったのでしたら、浴衣に着替えたらいかがですか。」と、やはり始めははっきりと話すがだんだんと声が小さくなる話し方で勧めた。なにもかにもが拒否のできないペースでお膳立てされ不気味ではあったが、ドラマのように悪役に囲まれる気配も感じられないし、人から見れば中年のサラリーマンに見えるだろうが一人二人なら叩きのめせる体力は有るつもりだ。
 「いやははは、習い性というかスーツは脱いでもワイシャツの方が体に合ってしまっていますから。」と、着替えないままの逃げ支度のおじけを見透かされないようにと思いながら床の間を背に席に座った。
 「私は清酒が好きなので、冷酒を用意してもらいました。お風呂から上がったばかりはビールの方がよろしいかしら。」と、やはりはっきりと話した後が徐々に小さくなる声で話し掛けてくるので、長く話すときは微妙に抑揚がついて話し言葉に女を感じ、耳をくすぐられるような心地よさがあった。
 「私も冷酒は大好きです。それぞれ手酌でいきますか。」目の前の露に濡れた瓶に手を伸ばした。「それは無粋ですわ、私がお酌しましょう。どうぞ。」と手を差し伸べたので、手元のガラスの大ぶりな猪口を手にした。酒の注がれる間、猪口に気を配りながらも冷酒を持った女の手と袖口を押さえるもう一方の手、そして顔に視線を移動させ酌をしてもらった。「今度は私がお酌しましょう。」と、女に冷酒を差し出し酌をしながら女の顔に視線をとどめた。女も視線を感じてはいるのだろうが女の視線は猪口に向けられたままなので、少し上から覗きこむように見る私は女の長いまつげに魅せられた。