映画『ソイレント・グリーン』の放映。

  今週水曜日(11日)の午後1時からBS-103で『ソイレント・グリーン』が放送されます。まあ、B級映画ですが、街角に公衆自殺室みたいなのがあって、死にたい人は自由に自殺できるという設定が、自殺願望のある私には面白いと思えました。あとはネタばらしになるので控えます。
 
  私は戦争映画であっても人の死ぬ映画は大嫌いです。ただ、私の納得できる必然性をもった自殺映画は嫌いではありません。
  死に対する私の考えを要約すれば、理不尽な死が嫌いで、推考の結果による自殺の選択は許容できるのです。
 
  ただ、自殺の手段の多くは途中で中止のできない方法が多いという欠点があります。高所からの飛び降り自殺など、跳んでしまったらもう引き返せません。
  多くの自殺手段というものが引き返せない一方通行なのですが、私は引き返せる手段を1つだけ教えてもらいました。ゆえに『ソイレント・グリーン』の公衆自殺室は面白いと思いますが、これも引き返せない様なので、たとえ現実に存在したとしても利用する考えはありません。
 
  それに、私は自殺にはメッセージ性があると考えています。すなわち、自殺には犯罪の告発や不条理の告発という側面があります。
  ですから何も残さずに自殺して、自殺した内面の原動力が誰にも判らなければ無駄死になるわけです。告発が理解されなければ、いじめで自殺に追い込まれたとしても、学校も教育委員会も知らぬ顔の半兵衛を決め込みます。たとえ、いじめっ子の実名入りの遺書があったところで80~90%は学校も教育委員会も『いじめは無かった』との結論を出すものです。
 
  でも不思議ですね~。学校のいじめと同じ事が社会で行われたとしたら、それは『強要、恐喝、暴行、窃盗』などの刑事事件になり、刑務所に入らないまでも執行猶予○年の実刑判決の下りる犯罪なのです。
  そんな犯罪行為を学校や教育委員会は『いじめ』という名前で放置するのでしょうか。不思議です。