老いという逃れられないやまい。

  老いをどの様に考えるかは各人各様だけれど、老いを病気と捉える人は少ないのではないだろうか。なぜなら、老いは自然現象であり、妊娠と同様に本来的に病気ではない。だがしかし、老いに伴う様々な知的肉体的変化と周囲にかける介助や介護の手間は病気とかわるところはない。
  ゆえに、私は老いを病気として捉える方が適切に対処できると考えている。すなわち、老いは万人に訪れるものなので多くの所見があり、医師だけでなく家庭内でも老いを目の当たりにして、祖父母や老親などにどの様に対処したかも経験しているはずである。
  そう考えると、親や配偶者などの老いを観察する事で老いの程度が推測できる。そして、観察者に正しい老いの経験や知識があれば、適切な対処で老いの速度を遅らせる事ができるはずである。
 
  子供のころの私は、子供に共通する楽観的な考え方をしていた。ところが『仕事は人を作る』の通り、プロの無線屋となってからは『悲観的に考え、楽観的に対処する』という考えに変わった。
  無線機の保守というものは待機業務であり、故障して初めて無線屋の技術がものをいうのである。しかし、故障の発生は業務全体から見れば好ましい事ではない。ゆえに、日頃の点検から故障を未然に防ぐという習性が身についてしまった。
 
  女房が階段落ちをした時も、私は(これを寝ぼけという一過性の事とせず、ボケの初期症状と捉えるべきだ)と考えた。
  一過性の事と考えれば(深夜にトイレに起きたのだから寝ぼけていた)や(漁師の家に育ち、深夜に起きる父のために遅くとも9時には家の電灯をすべて消して寝る)とか(夜中に尿意を感じても父が起きるまでは電灯を点けない様にトイレを我慢し、音をたてない)などの習慣があった。だから、真っ暗な寝室で方向を間違えて階段落ちしたわけで、ボケではないと言う事もできる。
  そう考えてもなんら不都合ではないのだが、生活して慣れている家庭内事故という事と、女房の65歳という年齢を考えれば、ボケの始めと考えて、今後に起こるであろう様々な行動変化に気を配らなければならないと思った。
 
  癌にかぎらず老いも早期発見が大切だと思う。だから、私は自分をも観察しているのだが、それには限界がある。自分の脳力が低下したら自分が観察できなくなってしまうのだ。
  ゆえに、私は体力よりも脳力を温存したいと考えている。脳力が低下してしまえば、人間だけが持っている『自殺』という高度知的思考ができなくなってしまう。それが一番恐い。(老いてからの自殺手段については内緒。教えてもいいけどお金とるぞ!!)