常識を疑うのは知性だ。

 常識は正しいのだろうか。私はそうは思わない。
 
 現代の常識で戦前の軍国日本を考察すれば、戦前の日本のあり方は間違いである。同様に武家社会の日本のあり方も、公家社会の日本のあり方も、現代の常識で考えれば誤りである。
 それでは、現代はどうなのだろう。それを考察するには現代の常識を破棄しなければ論じる事はできない。だが、それのできる人は少ないだろう。
 
 しかし、常識とはそんな大きな事でなくても存在する。お笑い芸人の仕込みネタかもしれないが、むかし付き合った彼女の家ではマヨネーズをかけた後、容器に残るマヨネーズの尻尾を、家族全員が舐めてキャップをしたそうで、彼女からマヨネーズを渡されたけどもサラダにかけられなかったと言っていた。
 これなども、その家における習慣的常識であり、一般には通用しない。
 
 まあ、嫁姑問題の多くも生家と婚家の常識の行き違いが多いのではないだろうか。まして昨今は核家族化が進み、嫁姑が意見をすり合わせる機会も少ない。
 まあ我が事ではあるが、私と女房は新婚時代にかなり言い争いをした。それはやはり日常生活の違いから生じるものであり、なぜそんな判断をしたのか話し合ってみれば理解できるものであった。
 そして、離婚もやむなしと思った言い争いは半年ほどで沈静化した。それは、私達2人の家庭の常識が定着したからだと思う。子供が生まれれば家庭の常識が変わり、巣立てばまた常識が変わる。そして、その家の常識というものは経済状態によりかなり変わるものだとも思った。
 
 常識というものは、日常茶飯事に行われる行動であるだけに、それに慣れてしまった人間には疑問を抱く余地がない。しかし、そこに目を向けるのが人間の知性である。
 また、物事が膠着状態となり解決の糸口が見出せない場合は、常識を破ってみると膠着状態を打破できる事がある。
 人間は流れに身を任せて生きるのではなく、流れより生まれた常識にも疑いの目を向けて、知性により常識に内在する非常識を正さなければならない。