昔の生活は不自由だった?。それでも人は生きてきた!。

 よこ八さんが4月1日に『計画停電廃止へ思い切った対策を 』というブログを書かれました。私もコメントを書かせていただきましたが、500文字という制限で一部削除するしかなかったので、ここにもう一度私の考えを述べます。
()内はよこ八さんのブログに書いたコメントです。
 
(私は『人間とは愚かな生き物』で、なおかつ『喉元過ぎれば熱さを忘れる』ものでもあると思っています。この震災による物不足や計画停電の不自由さは戦中、戦後の不自由さに比べれば天地?雲泥?の差のはずですが、物に溢れエネルギーの浪費に囲まれた生活に慣れた身にはこたえる不自由さです。)
 
削除部分:
 太平洋戦争の兵隊経験者はほとんど死に絶え、戦中戦後の貧しい生活を記憶する人間も社会的発言力を失いつつあります。そぞろ、巷には戦争を知らないがゆえに戦争を恐れない人達も増えてきているのは衆知の通りです。
 
(ゆえに、戦争の不自由さとは震災の不自由さには比べられないほどに酷い事を知るためにも、いま不自由さを体験し学ぶべきです。食料不足の時には、妻や娘が1食のために体を売る様な悲惨な生活があった事も思い出すべきではないでしょうか。)
(快適な生活が非常に脆い土台の上に築かれている事を学ぶための不自由さと知る機会になると考えていますので、私は公平の名の下に不自由を甘んじて受け入れます。)
 
削除部分・今回も削除すべきだろうと悩みました:
 大災害になると自衛隊が災害出動で現場に送り込まれますが、それは統制のとれた集団であり、人力においても機械力においても最高の能力を発揮するからです。しかし私は、大量の死体を扱い、死体に慣れさせる軍事訓練の側面もあるのではないかと邪推しています。
 さて、野ざらしの死体というものは3日もすれば異様な臭気を放ち、1週間もすれば処置に困る腐肉に変わります。常人がその処置に携わるのは大変な勇気と忍耐の必要な行動です。勿論、自衛官であっても同様ですが、本来の目的が戦争遂行集団ですから、死体に慣れるのは重要な事だと思います。
 そんな考え方をしている内蔵助ですから、自衛隊の災害出動を手放しでは喜べませんし、エールも送れません。自衛隊に代わる平和的組織の無いのが残念です。社会党の村山総理の時、なぜ自衛隊を災害救助隊にしなかったのか。軍隊というものは国内組織でありながら国際政治にも大きく影響する取り扱いの難しい問題なのです。