裁判員制度を考える。

 私の基本的考えは『等価の償い』です。一番判りやすいのはハムラビ法典の『目には目。歯には歯。』でしょう。
 たとえば、携帯型パソコンを貸して壊されたとしましょう。CPUが入っているから同じだと言って電卓を返されても納得出来ないでしょう。また、昔は農具の貸し借りなどもありました。鎌を借りれば研いで、借りた時よりも切れる様にして返したものです。現代は借りた物に感謝の意を重ねて返すという事をしなくなった気がします。
 前置きはさておき、私は裁判員制度に大反対です。
 それは、刑法の根本思想にあるからです。刑法は国家体制維持のための法律です。言い換えれば、権力者が国民を統治するための法律です。ゆえに、刑法には弾圧の考えが色濃く反映されています。たとえば、日本の死刑は公開処刑の手段である絞首刑(自分の体重で首を絞めるので正しくは溢死刑です)を採用しています。
 これは、国民にむごたらしい刑罰死を見せる事により、犯罪防止というよりも公開処刑で権力者に歯向かう事を恐れさせる方法だったのです。現代においてもその基本思想に違いはありません。すなわち、国民が刑事裁判に参加するという事は、国民自身が自分の首を絞める事につながるのです。
 白土三平の漫画『赤目』の中に、百姓一揆の首謀者を穴に埋めて、家族をその上に立たせて強く踏みしめさせる場面があります。そして武力で脅して土を踏ませた武士が『お前たちが家族を殺したのだ』と言いはなちます。
 これが裁判員制度によく似ているのです。国民感情とか一般的尺度などといいながら、裁判の不平不満を裁判員になすり付けようとしているのです。国家が重過ぎる判決を出し続けても、軽すぎる判決を出し続けても、不満や非難は国家に向けられます。本当は百姓一揆の首謀者を土に埋め、武力で土を踏み固めさせる様な事をする権力者に非があるのですが、裁判員制度は土を踏み固めた国民に責任を肩代わりさせるのです。
 裁判員制度のもう一つの欠点は、思想犯罪に参加できない事です。国家が国民を弾圧し、革命家が現体制の打破を狙って活動した場合、裁判員裁判は行われません。それこそ、国家が思うがままに革命家を弾圧するのです。それが、私達に身内を殺すために土を踏ませるのと同じである事の証拠です。